【書評】DEATH 「死」とは何か ①

こんばんは。三日坊主にならないためにやってきました。

 

タイトルに書評なんて入れたけどそんな大仰なものではない。

何しろまだ読み終わっていない。笑

しかし(なるべく)毎日更新するために、この時間に来るしかなかった。

 

今回読んだ本の面白かった部分を紹介してみようと思う。

私自身のメモ程度であるから、期待せずにスクロールしてってくれ。

 

今回読んだ本は『DEATH 「死」とは何か』

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私は幼いころから死とは何かについてずっと考えてきた。幼心にも、死とは常に恐怖の対象でありながら、また興味深いものであった。今では廃れてしまったが、好奇心がまだ旺盛だったあの頃、私には何故か嫌なことを考えるときは共存する良い面も考えようという癖があった。

 

悪い面だけ受け入れるより何か良い面も存在すればまだやっていける。(?)

 

そんな少年hakkounyuuが「死」というものに関して何をしたかというと、、、

死ぬことはもちろん嫌であった、しかし死ぬことでその先に待っているものが分かるという楽しみを自分に用意しておくのだ。そうすることで嫌なこと、今回で言えば死に対する恐怖を薄れさせていた。(好奇心・楽しみが勝っていたらいつ死n。。。)

 

 

とはいえ、死の先には何が待っているか。天国か地獄か。また人間になるのか。今の自分はどこへ行くのか。死に対する疑問は消えることなく、恐怖という形で不意に思い出される。特に医療従事者としての世界にいると死に直面することは日常茶飯事とも言え、脳裏から消えることはない。

 

 

そんな死に対する疑問を死ななくとも生きている間に考えてみたい、教えてもらいたいと常々考えていた矢先、この本に出合った。タイトル「DEATH」は一瞬で私の心を掴んだ。私の願いを叶えてくれるのではないか、と。

 

1回読んだだけだとさっぱりだし、そもそも哲学臭くて難解だし、それをさらに文章力のない私がまとめるのだ。みんなの顔が容易に想像できる。\(゜ロ\)?? (/ロ゜)/?笑

 

本題に入ろう!

この本で語るものは「死の本質」についてである。我々は何者なのか。魂はあるのか。死んだらどうなるのか。という問いに対して哲学的に考察する。(本書にて宗教的な考えは一切考慮されていない。)

 

興味深かったのはまず人間の存在についてだ。

私は何をもって存在しているとするのだろうか。ここで人格論と身体論が登場する。

(著者:イェール大学のシェリー・ケーガン氏は徹底して身体論の立場をとる)

 

 

人格論においては将来あるところに私と同様の思考、信念をもった人物がいるとき、その人物は私と同一であると考え(自己同一性?)、すなわち私は存在すると考える。

 

一方で身体論によると自分の身体が存在することのみが私が存在することを定義する

身体論においては怒ったり、計算したり、恋したりという精神的活動はできないのではなく、身体的機能の中に内在されていると考える。

 

身体論では、人が存在しているのは身体が存在する間と考えられ(身体を追え)、すなわち人は身体が消失したら時に存在しなくなる。

 

一方人格論では、今現在私の持っている人格(思考、信念など)を将来誰かが全く同じものを持っているときその人物は今の自分と同一であると考えられ、人の存在は人格が保たれている彼が存在する場合となる。

 

 

ここから、ようやく死ぬ瞬間について考えてみよう!!

(みんな読み疲れた。。。?)

 

人間は通常なら死ぬとき身体的機能と人格を同時に失う。

 

しかし、ある特殊なケースを考えてみよう。

例えば、人間が身体的な機能を保ったまま、何らかの原因で脳が衰え、思考する能力がなくなった(時点A)としよう。ここでは、呼吸、消化、心肺機能等の身体は正常に作動しているとする。

 

その後身体も徐々に衰え、身体的機能もいずれ廃絶(時点B)する。

 

その後きっと身体は腐敗し消失するのだろう。

 

一体いつ死は訪れたのだろうか。ここが面白い。(?)

 

仮に人格論の立場をとるとしよう。

Aを迎えた時点でその人は自分の人格を喪失している(精神的活動は不可能な)ため、もう存在しないとするのが妥当だろう。

 

ここでその人が存在しているかどうかではなく、生きているかどうかを考えてみると、AーBの期間はその人は生きているとは言えない。存在していない(人格はない)のに生きているわけがない。よって、その人は死んでいると考えるべきなのだろう。

しかし、その人の身体は存在している。なぜならまだ身体的機能を果たしているのだから。

そうなると、私は死んでいるが、私の身体は生きていると区別して考える必要が出てくる。

 

 

一方身体論の考えによると、身体的機能が廃絶したB時点で私は身体的機能を失う。B以降は私の身体は存在するので私は存在しているといえるが、私は死んでいる(Bで私の体が死んでいるのだから)。非常に不思議な言い回しだ。

私は存在しているのに、死んでいる。。。

 

本書冒頭で「人は死後も存在し続けることができるのだろうか」

という問題提起がなされているのだが、ここで一つの結論が導かれた。

 

身体論に従えば

あなたは死後も存在し続けられますよ、

しかしその私は死体になっています、

という嬉しいような悲しい結論だ。

 

 

何ら難しいことは言っていない。

一気にまとめると、

「やがて人は思考が止まり、身体も作動しなくなり、身体の死を迎える。当然私の存在はなくなり死とはただそれだけなのだ」

 

 

 

ダメだ、、伝わらない笑笑

 

なんだか本の魅力は伝わらないし、自分で何言ったのかわからなかったが、これが途中まで読んだまとめとなる。

 

 

人格論の否定的な考察は、理解むずいしよくまとめられないので逃げ~~(#^.^#)笑笑

 

 

死ぬことはごく自然な現象であることが何となく受け入れられた。

本書ではこの後臓器移植や、自殺が道徳的に正当化されうるか、死ぬことはそもそも悪いことなのか、死後がないとわかった今限られた人生をどう考えるかなどなどつづられているらしい。

 

 

気になる人はぜひ。頑張って続きまとめたいけど!

だらだらごめんなさい!