【映画】 花束みたいな恋をした
お久しぶりです。結局日が空いてしまいますね・・・
さて、私今週よりERローテとなりました。
この時期でようやくERローテとは再遅ですね。。。
こんなんだから大学は研修医が集まらないうえ質も悪いのですかね。。
と愚痴を言う前に、自分でなんとか成したいものです。
三次救急ということもあり、重症少なめの症例の日々ですが、一例一例大切に学んでいきたいです。
とまぁ殺伐とした日々から抜け出し、甘い世界に浸るために表題の映画を見てきました。
「花束みたいな恋をした」
監督 土井祐泰
脚本 坂本裕二
土井監督の作品は思い入れのある作品ばかりで今回も見ずにはいられないわけですよね。主演がアリカスってのがポイント。大好きです。ええ。あの涙袋とか。
あらすじ(前半少しだけ)
大学生同士の麦(すだまさき)と絹(ありかす)が、同じ終電を逃したことをきっかけに出会います。
他の人にはない二人だけの共通点に気づいてだんだんと惹かれ遭い、交際スタート。
一緒に暮らし始めてからも、絵を描くことが好きな麦はWeb上でデザインを描く仕事を、絹は歯科クリニックで事務の仕事をします。
しかし薄給になっていく麦は、だんだんと周囲の人物が社会で活躍するようになる中で不安を感じ、生活を安定させるためにと営業の仕事に転職します。かつて絹が好きと言ってくれた「絵描き」を捨て、生活のためにと日々仕事に明け暮れます。
以前なら絹と一緒に楽しんでいた映画も、小説の話も、絵を描くことも、今の麦にとってはどこかに忘れ去ったかのようで、徐々に絹との心の距離も離れていくわけです。
絹との生活のためにと仕事をしているのにもかかわらず、ここから歯車が狂い始めるのですね。。。
その後の展開は皆さんの目で見ていただくことにしましょう。
(私的には想像のラストとは違った展開で、え!?となりました。)
批評(ネタバレあり)
この映画では大学生から始まった男女の5年の交際を切り取ったものですが、自分に当てはまるところが多すぎて、見ていて他人事とは思えませんでしたね笑
この映画の本題は違うところにあるのですが、私には恋心の変化が大きく心に残りました。
麦は絹に向かって「最初と同じ恋愛感情でいるなんて無理だよ」「お互いに恋愛感情がなくたって生活している家族なんてたくさんいる」と。対して絹は「そうやってまたハードルを下げるの?」と。
地球上の人々は、はたしてどのくらい出会った頃の恋愛感情を持ち続けて、そして結婚して一緒にいるのでしょうか。だれかなんとかして調べてほしい。笑
今の社会では
血のつながった両親兄弟と暮らす20年弱よりも、
血のつながっていない、本来他人の結婚相手と暮らす50年の方がはるかに長いです。
だけどもです。
家族への思いは何年経ても色褪せないどころか、むしろ年々大切さが増していくのに、どうしてパートナーへの想いは必ずしもそうなるとは限らないのかと不思議に感じます。
血縁だけの問題なのでしょうか。(中には離縁するケースもありますが、、、)
両親は普段一緒に居ないからこそ大切に思うのでしょうか。
結婚相手にしても、まして家族同士でも人間100%分かり合うなんて不可能ですよね。だからこそ話し合うことが、一緒にいることに意味があるのでしょう。
他人と出会って、暮らして、子供も生まれて、、そういう風にして多様な個体が生まれなければとっくに人間は滅びています。
(他人にはない多くの共通点から深く惹かれ遭った二人も、最終的には恋愛観、価値観の違いから軋轢が生じ破局してしまう結末。。。辛すぎました。。。)
他人同士が家族になるのは大変な努力が必要なんだと、改めて感じた一本でした。
無理やりまとめましたがこの辺で笑
では!
【書評】ゴミ人間 日本中から笑われた夢がある
こんにちは!ハッコウニュウでーす!!
久しぶりのブログで。。登場の仕方が分からない笑
ブログ更新し続けるぞ!と意気込んだ昨年の自分は何処へ。
2020年5月を最後に姿を消していました。
家のWi-Fiがつながらなくなったのでしょう。きっと。(黙れ)
友人のstay foolish先生のブログを見ていたら、尻を叩かれた気分になり舞い戻ってきた次第です。感謝です。
今回はこれ!
絵本作家 西野亮廣
「ゴミ人間 日本中から笑われた夢がある」
今話題の「えんとつ町のプペル」公開日の1週間前(2020.12.18)に発行されました。
キンコン西野がどうして「芸人」➡「絵本作家」になったのか、
何を目的に、何を考えて、どんな行動をして、どんな想いでこの作品製作に打ち込んできたかが綴られています。
内容は自己啓発本のようであり、ビジネス書のようであり、哲学的でもありますが、結局は「えんとつ町のプペル」の宣伝本なのでした。
否定的な意味でなく、西野の才能がやはり底知れないことを思い知ったという次第です。(きっと読めばわかります)
印象的なフレーズは多々ありましたが、一つ。
「『目的を達成するために何をするべきか?』を考えるのではなく、『何をしたら確実に目的が達成できないか?』をリストアップするようにしている。」
という一文はなるほどその考えもあるか、とフムフムしてました。
「報われる努力し」ても報われるかどうかは運が絡むが、
「報われない努力をしない」ことは運が絡まないためコントロール可能という考えのもとのようです。
「多くの人と会話をしたい➡人がいないところには行かない」みたいな感じ?
なかなか思いつくの難しいです。笑
実は昨年ルミネ新宿でキンコンの漫才を見てからめちゃ好きなんです、西野。
漫才終わるころには涙で前が見えなくなるほど笑ってました。マジで。笑
そんな彼の本を読むのは初めてでしたけど、
ほんとに「才能が渋滞してる」と心の中でツッコんでました。
実際に「えんとつ町のプペル」を見てませんし、
原作の絵本もまだ見ていませんが、
この本読み終えた今、すぐにでも映画館に飛び込みたくなりました!!
こうして西野の経営戦略にハマっている自分に気づいて改めて脱帽ですね。笑
内容的には自己啓発的な面もあるし、映画も絶対楽しくなるし、難しい言葉なくて一瞬で読めるし、西野好きになれるし、おススメです!!!
ではまた!(次はいつになるのやら~)
【書評】僕の人生には事件が起きない
こんにちは。ステイホームしてます発酵乳です。
今回はこれ!
僕の人生には事件が起きない
皆さんご存じハライチのじゃない方、岩井勇気さんの書いたエッセイ本ですね。
わたしエッセイ本というのはあまり読んだことなく、
あるとすれば、さくらももこさんの有名どころくらいでした。
(それでもさくらももこは大好きでした。ちょうど『もものかんづめ』をベッドで読んでクスッと笑っていたところに、テレビでさくらももこさんの訃報を伝えるニュースを聞いたことはわすれられません。。)
そんな私がなぜこんな本を読み始めたかというと、、、
高校時代の仲良しグループの友達に芸人大好きマンがおりまして、
僕はその友達が面白くて大好きなのですが、そんな彼が
「岩井のこの作品は本当に面白いから読んでくれ」
と大絶賛だったわけです。
事実、彼は岩井のことが大好きなんだろうから、それで面白いのだろうと”たか”をくくっていましたが、まあ買ってもいいかなと。
しかし、いざ買おうとすると、アマゾンで評価は高いのなんの。
わたし特に新品にこだわりはなくメルカリもよく使うのですが、ほぼ定価近くの値段で
取引されており、人気ありありでして。
・・・
けどメルカリでたくさん売られているってことはたいして面白くもないんじゃねえかと、まだまだ信じることができず、自分の財布と岩井の綱引き状態。
そんな時、
『この岩井のエッセイ集はよく「ハライチのターン」てラジオ番組で話すような内容とかトーク番組で面白かった話も載ってるよ。』
と例の友人が先日のzoom飲みで言っていたことを思い出し、同時に
『ユーチューブにも岩井のトーク集があるから聞いてみて!』とおススメされていたことを思い出しました。
てなわけで、ひとまずネットショッピングから手を引き、ヨウツベさんへ。
これですね。初めに聞いたものは。
これがわたしにはバカ受けでした。
仲のいい友人のススメがあったのもありますが、それを差し引いても普通に面白い。笑
なんでこんな普通の日常を面白く話せるのかと不思議なくらい面白かった。
もともとラジオは好きで、radikoをよく車で流していたのですが、
大都会新潟に帰ってきた途端、どういうわけか、地方版のラジオしか聞くことができずradikoをアンインストールしてしまっていた経緯もあり
ヨウツベさんをほっとんど見ることがなくその方面に疎すぎる私は大喜びでした。
ぜひ皆さんにもまずはこの動画から、他にもたくさんトーク集ありますので聞いていただきたい。(もう岩井ファンなのか俺)
そんなこんなで再びメルカリへ。
本を買ったのかといいますと、ええそうですね。
書評と書いているから買ったに決まっているのですよね。
メルカリで僕に本を譲っていただいた方も、きれいにラッピングをした上に
まさかのお手紙までつけていただいて。
『こんな時期だからこそ読書いいですよね。こんなに面白い本を共有できるお仲間ができてうれしいです。ありがとうございました。』と。
この本を読むとこんなに気持ちのいい人間になれるのかと、
もう本に対してワケの分からない期待を抱いてしまっている自分がいました。
そのまま、読み始めること2時間もすると読了してしまうほどの文量なのですが、
この本は確実に僕の心を少し変えてくれた気がします。
ヨウツベを聞いていたときは、
さすが岩井のトーク術のおかげでこんなに面白く日常を描けるのか
と思っていましたが、
どうやらそれだけでは無いということが分かります。
しかし、この本の意図するところはタイトルそのまま『僕の人生には事件が起きない』ということ。
大人気芸人のハライチ、そのじゃない方の芸人(今はそんなこと思いませんが)のエッセイ本、予想に反せず楽しませていただきました。
これからの日常の見方を少し変えてくれた岩井、そして紹介してくれた友人に感謝です。
なんていう投稿も、事件が起きることのない優雅な休日からお送りしました。
皆さんもぜひ。
ではまた。
【書評】博士の愛した数式
第一回本屋大賞受賞作で発売後すぐ我が家に来た本を小学生?だった私は最後まで読めず放置していた経緯があります。
どれほど読書が苦手だったのでしょうか。笑
今回は16年の時を経て、読み直すことに。
皆さんご存じかと思いますが、毎度のごとくさらっと内容も。
老年の天才数学者(博士)と、家政婦の若い女性(私)、そしてその息子(ルート君)の3人が主な登場人物。
家政婦の「私」が新たに契約することになったのが、「博士」の家。
この契約先が問題ありといわれた理由は、
博士が過去に交通事故に遭って以来、記憶を80分しか保持できない障害を抱えていること。
この第一の設定にまず惹かれてしまいました。
かつて私の大好きな新垣結衣主演の「掟上今日子の備忘録」では毎日寝ると記憶リセットしてしまう設定でしたが、掟上今日子は必要な事項は直接体に書き込んでいました。
この博士の場合、大切なことは付箋に書き、クリップでスーツに留めるというもの。
「私」や「ルート君」の存在は毎回付箋を見ることで、再確認します。
博士が自分の障害のために周囲に迷惑をかけないように配慮する一方、
親子の二人も博士の配慮を最小限にすべく、何度同じ話をされても気にしないなど、何でもない風に振舞っていきます。
そうした三人の会話の軸になっているのが博士お得意の『数学』なのです。
この物語の面白かった点は
博士と親子の会話や関係を『数学』によって見事につなぎ合わせていく、
というか、なんでもない事柄を、数字における関係性で美しく重要なものに感じさせてしまうことでした。
つまりはというと、
「私」が初めて「博士」に挨拶に行くと開口一番、「私」に誕生日を聞く場面があります。
ここで 2月20日、と答えます。
すると博士がかつて大学にて受賞した名誉ある学長賞No.284の数字を用いて、
「220と284が友愛数」であり、
それはフェルマーもデカルトも1組ずつしか見つけられない、稀な組み合わせであることを説明し、
私と博士の関係性が奇跡にも近い重要なもののように扱うのです。
(友愛数とは、一方の数の約数の総和がもう一方の数になる組み合わせのこと)
僕にとっては数学の話自体が興味深いもので、
高校卒業程度でありますが、数学は大好きな科目であったのでどんどん物語を読み進めてしまうし
それ以上に
こうした友愛数のほか双子素数や虚数、完全数といった数学の整然とした美しさを登場人物の関係性にまで落とし込み、
巧みに温厚で愛情感のある関係性を描写する点がなんとも美しかった。
物語を通して、三人の関係が家族とも恋人とも異なった、しかし深い情愛で繋ぎ合わされていく過程を
どうして、まったく無機質な数字の世界で表現できるのかと終始感動してしまう。
博士の教えてくれる、数字のもつ学問的な美しさにも加えて、
数字の美しい関係性を日常生活の中にリンクさせて物語を紡ぎだしていく創造力、
最後には物語のすべてのピースが一つに合わさっていく芸当を目の当たりにして
著者、小川洋子さんにあっぱれの一言しか持ちえない作品でした。
この本は小学生の頃に読み終えていたらどんな感想を持っただろうか気になるが、
もしかしたら、数学者を目指していたかもしれないと思うほど、改めて数学の面白さに
も気づかせてくれた。
この物語は「数学」という一見すると難解そうなカテゴリでまとめ上げられ、
しかし読んでみると小学生でも理解できるほどやさしい『算数』で
三人の暖かく優しい内面、関係性を表現していく美しい文学作品でした。
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・雑談・
昨晩は医局zoom飲み会が開催され、研修医のわたくしまで招いていただき、楽しませていただきました。
あまりの楽しさと久方ぶりの飲み会だったもので
ビールにハイボールに八海山4合瓶まで開けてしまいましたm(__)m
お恥ずかしながら今しがた「4合瓶」という言葉がすっと出てこなく検索かけてしまったのですが。笑
日本酒の単位についてへえ~と思ったので紹介。
1合=180ml
1升=1800ml
はよくご存じかと思いますが、、、
その前後の単位として、10倍、10倍・・・で
小さい方から 「勺」➡「合」➡「升」➡「斗」➡「石(ごく)」
となるそうな
どれも聞いたことある単位ですが、関係性がすっきり。
カルテに alcohol :Sake5勺/dayとかわざと書いてみたい。笑
皆さんお酒はほどほどに!(説得力皆無)
STAY HOME!
お題「#おうち時間」
こんばんは。
最終更新日からゆうに二週間程度たってしまいました。
病棟がいかに忙しくとも、ブログの更新をやめるべきではないのですが、
この宣言に反してさぼってしまいました。
完全にわたくしの失態です。。。
とまあ、聞きたくもなかった失態をさらしたうえで、
ネタがなかったものではてなブログのテーマにあった
Stay homeについてです!
私のステイホームはめっぽう筋トレ、読書、ドライブ(車外には出ない)です!
卒業の時に後輩から、ダンベルとインクラインベンチをプレゼントしてもらい、
自宅が半分ジムと化していますが、
おかげで充実の筋トレライフを過ごしています。
現在はステイホームの影響でジムも空いてないことが大半。
そのせいか、ダンベルの売れ行きがすごいようで、
先日通販を調べてみたところ今注文しても最短で7月中の発送なんだとか。。。
こうなることは全く予想していなかったわけですが、
昨年度の自分、ナイスッ!笑
読書に関しては
哲学モノと、日本の純文学をよく。
また新たな試みで次はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』シリーズを購入いたしまして、何とか完遂してやろうかと。。笑
このユリシーズでは「意識の流れ」という技法が使われています。
この「意識の流れ」の技法が文学的に高く評価されているものなのですが、いったいどのような技法なのでしょうか。
何のことかというと、通常の?よく見る文章では
3人称の人物のコトバはカギかっこ『』や二重カギかっこ「『』」
を用いるなどして、表現することで分かりやすい文章になっています。
しかし、この技法においてはそうした3人称のコトバも、地の文章の中に組み込んで表現してしまうのです。
つまり、よくある小説の一人称の『私』の心理描写と同じように、
『三人称』の人物の心理、思っている心の内を文中に書き込んで表現するため、
ストーリーの中の時間軸が進むのに対して(外的時間)、心理描写は瞬時の出来事(内的時間)なのに、文章がやたらめったら長いこともあって、ストーリーを把握しにくいのです。
こうした物語性よりも、人物の心理描写にのみ焦点を当てたものとして「意識の流れ」は評価を受けているとのことなのです。
言葉足らずでうまく伝わらないので、
意識の流れ ←ggっちゃってくださいな!(あきらめ笑)
この技法は以前フォークナーの「サンクチュアリ」を読んだときに知ったものですが、このフォークナーが用いた「意識の流れ」
のルーツ、生みの親はジェイムズ・ジョイスだったことを知り気になっていました。
フォークナーもまた「意識の流れ」を用いた作者でしたが、まだ物語としてはわかりやすい印象でした。
(が、どうやら3人称の部分は斜体で翻訳されるなど、若干手が加えられていたのだとか、、、笑)
ユリシーズの読書感想を見てみると、
難解すぎてただの修行だとか、気の進まないレビューも多かったのですが
やはり若いうちに一度挑戦してみよということで。
といっても700ページ超の文庫本が4冊と大作も大作。
無事読み終えたら(読み終えなくても)その旨を伝えます笑
最後はドライブ。
やはり母国新潟に帰ったこともあり、うれしさ半面、出かけられないもどかしさも。
ドライブしてみると、いろんなところに外出している方を大勢見かけてしまいます。
こうしたときに本当の人間の内面が試されるのでしょうか。
ドライブといえ出かけている時点で私もよわよわですが。。
どうせ若いから感染しても死なないし➡日本人は若年死亡例多め?
マスクしていなくても自分が感染していなけられば関係ない➡不顕性でもウイルス輩出してるよね
高齢者の近くに行かなければいいんでしょ➡ウイルスは数時間はそこにいる。
ヒトの行動を変える一番の方法は何なのでしょうか~
正しい情報を伝える・強制力のある行動制限・人格教育・お金?笑・
分かりませんね。。。
皆さんいかがお過ごしでしょうか!?
【書評】 異邦人
本を一読して完ぺきにこの本の意図するところを完全につかみきれなかったというのが正直のところ。
読解力が足りなかったため再読したい。
今回は書評ではなくただのネタバレ、要約、ほんの少しの感想です(ごめんチャイ)
笑
『不条理に関して、不条理に抗して作られた古典的作品』とも言われるカミュの処女作。
カミュ 異邦人
ちなみに・・・
『異邦人』とはユダヤ教の『聖書』(キリスト教の『旧約聖書』)においては、ユダヤ人以外の者を指し、キリスト教の『新約聖書』においても、特にユダヤ人以外を指すと思われる。(初期のキリスト教徒はユダヤ人が多く、ユダヤ教の一派であるとみなす方が適当であるため、また異邦人の信徒なる表現も新約には存在するため)
(wikipedia参照)
↓↓↓
男ムルソーは自らの経済力に限りがあったため、病床の母に看護師をあてがうことができずに養老院に母を預けていた。
この物語はそんなムルソーの母の死から話が始まる。
ムルソーは仕事の休みをもらい母の通夜へと向かう。
その中で司祭や門衛、生前母と親交の深かったペレという老人との会話が描かれる。
ムルソーは通夜の間、涙を流さず、母の顔を見るかと尋ねられても見ず、心を落ち着けるためかミルクコーヒーや煙草を口にし、通夜への移動で疲れた体を休める姿が描写される。
母との別れは金曜日であったため、あくる土日は休みであった。
彼は親しい女友達マリィと会い、海水浴や喜劇映画を見、夜は女と部屋で一晩を過ごした。
女の帰った日曜日は椅子に座りながら部屋から通りを眺め、世間が何も変わらない一日を繰り返していることを再確認する。
ムルソーにとっての母の死が何であろうと、世間の人々にとっては何ら影響のないものなのだ。
しばらくすると、ムルソーはレエモンという女衒を商いとする男と仲を深めるも、復讐したい女がいるから手伝うように頼まれる。
彼にとってそれはどうでもいいことで、ただレエモンを気に入っていたし、断る理由もなかったため、引き受けた。
女をおびき出すための手紙の代筆を頼まれたので書き、その後男は復習に成功する。
しかしレエモンが刑事罰に問われると、再びムルソーはレエモンの証人になるように頼まれ、それを引き受けた。男は保釈されることに成功する。
すると今度はレエモンは、復讐した女の兄に追われるようになる。
刃物を扱う兄集団に対して、レエモンはピストルを使おうとするも、それを察知したムルソーは撃つのはいけないと思い、自分がよいタイミングで撃つからと説得しピストルを預かる。
一触即発の事態は免れたもののレエモンは切り傷を負い一時帰宅する。
その後何の気なしにムルソーが一人で外を散歩していると、再び兄集団に出くわす。そこで襲われかけたため、偶然まだ持っていたピストルで5発を撃ちこみ、殺めてしまうのだ。。。
話は急転し、ムルソーは裁判にかけられる。
裁判では、5発も撃ち込む残虐性、ピストルを持っていた計画性、とともに、司祭や門衛、ペレら登場人物の証人尋問により母を前にして全く悲しみの感情を表さず、むしろ顔も見ず煙草にふける姿、通夜の翌日には女と出かけ、海水浴、喜劇映画と楽しんでいたことが明らかになり、検事によって誇張してとりざたされてしまう。
ムルソーには情状酌量の余地もないほど、善人としての心を一切持ち合わせていないことが延々述べられ窮地に立たされていく。
ムルソーは反論をしようとするも、弁護士によって、心証を悪くしないためにも黙っていた方がよいとなだめられてしまう。ムルソー自身も事実は事実と認めざるを得ず、言い返しが難しい部分もあった。
被告人で最重要人物で主役はこの自分ムルソーであるのに、
まるで自分の存在を無視するかのように裁判が進行し、どんどん自分が重罪人に仕立て上げられていく様が不思議でならなかった。
非常なまでにムルソーの行動が否定されていくので、
弁護士が検事に向かって『ムルソーは母の葬儀で涙を流さなかったために罪を背負うのか、それとも、男を銃殺したために刑に処されるのか!』と反論したが、検事から『残虐な心を持ったまま母を埋葬したことで弾劾されるべきなのだ』と一蹴されてしまう。
そうして死刑が言い渡される。
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一読した限り、ムルソー行動から、楽観主義と若干ドライな性格、そして自分の欲望にただ正直に生きる姿が読み取れた。
そうした行動のすべてが裏目に出て、次々に罪が重くされてしまうことに、もどかしさしか覚えなかった。
物語の最後の3,4ページで
一年を超える裁判の最中、感情も考えもほとんど露わにせず、半ばあきらめの境地にいたムルソーの訴え、心情、反論、思いがようやく吐露される。
ここにカミュの時代に対する思いが詰まっているのだろうが、ここを読み解くために当時の時代背景、カミュの生活史をもっと学びたいと思う。
この作品をどう読むかに当たって、あとがきに紹介されていたカミュの自序が非常にわかりやすかった。
つまるところ、母親の通夜で涙を流さなかった人間が死刑になる恐れがあるのは、芝居をしなければ社会の中で「異邦人」の扱いを受けることに他ならない、ということなのだと。
ムルソーが作中で、涙を流すに代表される演技をしなかったのは自分に決して嘘をつきなくなかったからだ。
でも私たちは、日々の生活を円滑にしようと、ほんの少しの偽りを自身もしくは周囲に対してしてしまう。
そうすることで、仲間とうまくいったり、物事がうまく運ぶからだ。
その代償として自分を何か真理(本心?)とは離れた存在にしてしまうのではないかと、本作を読んで怖くも感じた。
真理のために世界から処刑されることを選んだムルソーの信念に感動した。(人は殺したがもう関係ないよね)
んじゃ!笑
【書評】医と知の航海
ご無沙汰しておりました。
研修医としてオリエンテーションを終え、病棟にようやくあがれました。
初めは産婦人科ローテからです。
オリエンテーションという軟禁生活からの解放に加えて、
コウノトリの再放送もあってモチベーションは完ぺきに保てております。笑
コロナの影響で学会が中止になったり、
病院でもカンファ・オペなど制限されている状況ではありますが、
そんな不遇の時代でも研修医として最大限の学びを心がけていきたいものです。
さて、今回は「医と知の航海」
もちろんまだ皆さん持ってますよね(?笑)
永井学長監修であり
学長をはじめ大学時代の懐かしい先生方が制作に加わっています。
哲学、心理学、倫理、社会学、コミュニケーション、、などなどそれぞれの専門分野をベースに心惹かれる話をしてくださいます。
当然顔も知っている先生方の書かれた本であり、当時の講義が懐かしく思い出されるとともに、
「なぜあの時もっとまじめに講義を聞かなかったのだろうか」と悔やんでしまいます。
。。そんな面白い話ばかりの本でした。
一つ最も印象に残った部分を。
「哲学」の章にて。先生がだれかはもうわかりますよね。
そこでは、今までの人生の中で『忘れられないコトバ』を想起するように求められます。皆さんもやってみてください。
小説でも、出会った人のコトバでも、映画の中のコトバでも。
そのコトバを聞いたシーンを鮮明に思い出せますか?なぜその言葉が記憶に残っているを思います?その言葉の意味は時を経るごとに変化していますか?
このコトバが5つ以下であるのなら、薄っぺらい人間認定をされてしまいます。笑
(私はぺらっぺらでした。笑)
先生は人の素養や教養の質はこの『忘れられないコトバ』の数で決まってくると考えているようです。なるほどなと思ってしまいました。
覚えようともしていないのに勝手に記憶に残るコトバこそ、
その人を形作るもので
そんなコトバとの出会いが人生に影響する。
『覚えようとして努力した知識や言葉には、人間を形成する力はない』
なぜか私には非常に響いて、これこそ『忘れられないコトバ』になるものでした。
教養とは決して記憶しようと必死になって手に入れるものではない
読書、人、との関わりの中多くのコトバと出会う過程で『間接的』に形成されるものだと。
最後に先生は。
『本を読め!夥しく!浴びるように!』的なノリで来ます。笑
1年間に100冊の読書量をできないようでは趣味に読書などと言っていけないと。
(ヒトツキ10冊かよ、、、)と思いましたが、やはりあくまで努力冊数の例だとおもいますので、そのくらいの気概を持って。笑
医学を6年間学んで、低学年で学んできた知識がだんだんとネットワーク形成されていく、あの感じ、ワクワク面白いですよね。
医学だけでなく、歴史、社会、自然、宗教、音楽等、あらゆる世界を体系的につなげて考えることができればなんと楽しいか。。。
生きているうちに、あのワクワクを何度でも感じてみたいですね。